花発多風雨 人生足別離

2021年5月4日〜

1

大学の教官というのは因果な商売で、自分は一定のペースで年を取るのに、大学院生は4年とか6年で卒業し、新入生が入ると世代がリセットするという繰り返しであるから、私と学生の年はどんどん離れていく。

この頃入ってくる学生は、修士課程であれば、私の次女と同じくらいであるから、文字通り、親と子ほど年が違う。アニメ好きの学生が来て机にアニメの主人公の写真が飾ってあったり、パソコンにキャラクターのシールが貼り付けてあったりすると、子では無く孫かと思ってしまったりする。

例外も少しはいたが、大概は論文を書くとデフェンスを経て卒業するので、お別れが来る。

普通の才能で普通に努力した学生が去る時さしたる感慨もないが、才能があり努力もたっぷりとやった学生がラボを辞する時は、やはりさみしい。

コロナの渦中に中国に帰国してポスドクの道を選ぶ学生を見送った。

お別れの日に一献やろうと木倉町に誘った。一回目の緊急事態宣言が明ける少し前であったと思う。通りにほとんど人影は無く、開いている店もまばらであった。どこが開いているか見当が付かなかったので、現地において店を選ぶことにした。

幸いに適当な店があり、客は我々のみで、落ち着けそうだ。

ワインを開けてもらい乾杯をするぐらいの段から、彼はもう目に涙を溜めていた。食事中もしばしば言葉に詰まった。

彼はたしか半年研究生をやって修士から博士をやったので6年半ラボに居た。また、中国から来た最初の学生であったと思う。

ベンチワークは、当時特任助教で、ダナ・ファーバーを経ていま東京有明のがん研にいる北嶋俊輔さんが鍛えた。北嶋さんは結構厳しかった。

そのおかげで彼はCancer Researchという老舗誌に論文を書き、学長賞も高安賞も卒業生総代も総なめにして(三冠王)、上海の複旦大学のポスドクの席もすんなりと得た。このまま育てば将来偉くなるだろう。

私は何も心配していないが、いよいよの別れ際にとても不安そうな表情を見せた彼の肩を引き寄せ、頑張れ、とひとこと言って、ぽんと突き放し、バイバイを振ると私は家路についた。

2

木倉町から自宅に帰る道に沿って流れる疎水の水面を右に見ながら、これまで私にこのような思いをさせた学生がいかほどいたか考えてみた。

私の卒業論文にはRECKの仕上げがまったく間に合わず、同時にクローニングしていたホメオボックス遺伝子のほうをやっつけて、当時ウイルス研にいらした伊藤嘉明先生がチーフ・エディターをされていたOncogeneに「徒歩」で投稿した。

1996年の3月に論文が受理され、3月に審査を受け、3月に卒業した。

この辺京都大学は迅速で、論文さえ出れば、すぐに次の行動に移ることが出来る。いまでもそうなのであろうか。対して金沢大学は、決まった時期にしか審査をせぬし、論文提出の締め切りもえらく早めに設定していて、学生の不利益が頗る大きい。

1996年の4月と5月のふたつきポスドクをやって、6月から助手にしてもらった。

これに先んじて当時助教授の西澤誠先生がスクリプス研究所のPeter Vogt先生のところに留学されていた。

当時人事の決めごとなど考えもしなかったが、私のポストは助教授の留学と引き換えに用意されたたものと思われる。そういえば、西澤先生にはMafがん遺伝子のクローニングという堂々たる業績が既にあり、いまさら渡米するのはどうもイヤイヤという感じであった。

当時RECK遺伝子の解析が未完であった私の将来を何人かの先生が大事に思ってくれていたのだと思われる。

助手になり最初に受け持った学生はラボのなかで様々な軋轢を引き起こし途中で辞めてしまった。

次に受け持ったのが、ブラジルのサンパウロ大学から来た日系人の笹原さんであった。父方のご先祖が山形で、遺伝的には純粋な日本人だが、心はラテンアメリカである。明るい。

大学院4年生の時に野田教授からGordon conferenceへの参加を勧められた。私の参加したのは細胞周期かなんかだったかと思う。ボストンに飛び、そこからバスでたしかニューハンプシャーのどこかの小さい大学に向かった。夏の間学生の居なくなった寮を宿舎にして5日間くらい缶詰で学会をやる。

野田先生がBenjamin Neel先生に手紙を出しておいてくれたので、彼がいろいろ世話を焼いてくれた。彼は後に私の師であるMark Ewen先生とともにMCBのChief Editorをやっている。John Blenis先生とか一級の研究者に引き合わせてくれた。ミクサーでJoan Massague先生がたしかChuck Sherr先生とビリアードに興じているのをビール片手に横から見ていた記憶がある。

RECKのクローニングと基本的な解析情報をポスターにまとめ発表した。右横のポスターがNatureで裏がScienceという感じだったので、こりゃあエラいところに来てしまったと思った。

3度の食事を皆で摂る。大きな円卓を使うので、毎回誰か知らないヒトと隣り合う。そのような一人が笹原さんの師であったMari Cleide Sogayar先生だった。彼女は、大変熱心に私の話を聞いてくれ、後に笹原さんを送ってくれた。笹原さんはRECK遺伝子のプロモーターを単離して解析、のちにノックアウトマウスを創るときに必要なゲノム断片のクローニングも成し遂げた。

そしてその横にいたのがAMGENの盛先生だった。Sogayar先生との会話に刺激され彼女も話しに加わったのだと思う。やがてAMGENからインビテーションが来て、野田先生とともにロサンゼルスに飛び、副社長らのグループと共同研究が始まり、RECK遺伝子の完全長クローニングと抗体作製が達成された。ロサンゼルスの空港に着いたときにAMGENから差し回された車がリンカーンのリムジンで、乗り込むとシャンペンがアイスボックスに刺さっていたのは良い思い出である。盛先生はRECKの最初の報告となったPNAS論文の第2著者である。コレステロール経路と動脈硬化の研究で有名なGoldstein研出身であり、後に私の重要な共同研究者となる筑波大学の島野仁先生の同僚でもあった。

これは金沢に移ってからであるが、Keystone symposiaに行ったとき、やはり食卓で第一三共の方と隣り合った。彼が私の高校時代の同輩である脇田さんの多分当時上司であった廣田氏であり、ほどなく、共同研究が開始し、SUCLA2の仕事に結びついた。

昨今会食は評判が悪いが、つまり、学会における会食はボーッとしていてはいけない。何が起こるか判らない。インターネット検索などなかった学生時代隣あったヒトとの情報交換は真剣勝負であったともいえる。

会食だけでなく、ボストンのローガン空港で学会行きのバスを待っているときでさえ、隣のヒトから話しかけられ、情報交換した。彼の名を聞くとAzad Bonniであり、Michael Greenberg研でCNTFをクローニングした仕事をひっさげて参加していた。いまはワシントン大医学部(いわゆるワッシユー)で偉い教授になっているという。

3

話が大分逸れたが、笹原さんはそのような経緯で僕のところに来ることになった。件の問題の学生は私のグループを外れたので、二人だけであった。

お互いの語学力を高めるために、会話は英語と日本語を日替わりで使うことにした。このルールは後にグループに合流する呉さんも踏襲した。

ヒトRECK遺伝子のcDNAは手元にあったので、[32P]を湯水の様に使ってファージライブラリーによるハイブリダイゼーションクローニング法を用い、マウスReck cDNA単離とマウスとヒトのRECK遺伝子ゲノム構造決定をめざした。

目標は全部達成し、彼女はブラジル帰国後にプロモーター構造解析を学位論文にする。帰国後にというのは、大学院入学後2年経った時点でいまのご主人との結婚のために帰国することになったからである。途中帰国は残念ではあったがマテリアルもデータも揃っていたので問題なかった。私にとっては最初の手応えのある学生であった。

私の研究の影響によってブラジルから遙々祖国日本にやってきての一人暮らしであるから、休日は頻繁に私の家にやってきて家族と晩ご飯を食べたり、琵琶湖岸にBBQに行ったりであった。お母様が日本に来られた折は、ブラジルから持ってきたサトウキビとハーブで本場物のCaipirinhaを作ってくださった。

私がボストンに居たときは、たしかSogayar先生を伴って私の家に来た。

つい2年前もご主人とお二人の娘さんを連れて京都に訪ねてきた。家族ぐるみの付き合いが続いている。

私の最初のRECK論文がトップジャーナルをふたつみっつ蹴られてPNASとなり落ち込んでいたとき、どのジャーナルから出ようとこの仕事の価値は普遍であるとして励ましてくれたのが彼女であった。同じ事をいま私の学生に言い聞かせている。

4

笹原さんの2年目に韓国からやってきたのが呉さんである。

RECKとMMP9の関係を1998年にPNASに報告し、次にめざすところは他のMMPとの関係、そして、ノックアウトマウスの表現型であった。

呉さんがやってきた頃には、RECKの組み換え(リコンビナント)タンパク質は完備、Reck遺伝子を欠くES細胞もできあがっていた。

相同組み換えに用いるベクターの骨格に使うゲノムを笹原さんが取り、私がコンストラクトをやって、当時京大にいらした糸原重美先生の助けを借りて300以上のES細胞クローンを取っていた。糸原先生は利根川研出身で、当時バンバンとノックアウトマウスを作成していた。彼がすぐそばに居たのは幸運であった。

しかし糸原のES細胞のスクリーニングは当時サザンブロッティングのみという事であった。300以上のES細胞クローンからゲノムDNAを抽出しブロットし来る日も来る日もサザンブロッティングをやって当たりが無い。

ES細胞は当時12時間毎に新鮮なLIF(leukemia inhibitory factor)を含む培養液を換えねばならなかった。そうでないとLIFの影響が弱くなってクローンは分化し多分化能を喪失すると考えられていた。

300以上のシリンダークローニングをやりながら液換えをやると、3−4時間かかって一回の作業を終え、少しほっとして他の仕事をやっているうちじきに次の液換えの時間になる。これを休み無く2週間ほどやるので全部のクローンからDNAを抽出し細胞のDMSO凍結ストックを作ってしまうとなんとなく眩暈がした。

ところがサザンの当たりが無いので、すっかりしょげてしまっていた。

しかし、幸運の女神はいた。糸原先生が和光の理研にラボを持ち異動されたときに、京大農学部の修士学生であった西村祥子さんのお世話を私に託した。

ノックアウトマウスを諦めきれない私はサザンに用いたプローブに問題があると判断し、糸原先生が推奨しなかったPCR法での再スクリーニングをデザインし、この実行を西村さんにお願いした。

彼女が来てものの2〜3週間で3クローンほど当たりが出た。これはグループにいた3人で手に手を取って喜んだ。細胞ストックをドライアイスに詰めて理研に赴き、胚盤胞へのインジェクションまで泊まり込みで見届けた。果たして数ヶ月後にキメラマウスが送られてきてReck遺伝子ノックアウトマウスの完成へと突進した。

(続く)

投稿者: 髙橋 智聡

ピアノを50年以上弾いている。芸事が大好きで、ほかに、茶道、義太夫三味線、能管、ドイツリートなどいろいろ手を出したが、すべて下手の横好きだった。西洋の古典音楽と日本の文楽をこよなく愛する。この15年ほど、夏山行にはまっているが、太ってしまったのと、まとまった時間がとれないのが悩み。金沢からなら、2−3時間もあれば、北アルプスの主要な峰々の登り口に到達する。そして、虎ファン。現、金沢大学がん進展制御研究所教授、内科医。研究の話は、HPで。 http://omb.w3.kanazawa-u.ac.jp/index.html

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