松美屋

松美屋  2020年7月8日〜12日

1

令和2年6月26日、私は近江町市場の十間町口の向かいにある菓子屋を右に折れ、通い慣れた通りに入った。曲がるとすぐに赤提灯が見える。まだ電気が入っていない。14時ちょうど、いつものように少しあいたガラス戸の隙間に右手を差し入れ、左に向かって押した。

いつもの夜のように店主がおでん鍋の向こう縁に居て私を迎えてくれた。

いつもと違って随分陽が高いが、いつものように中へ入った。

一番乗りであった。

おっつけ常連客が来るであろうと、はじめ一番奥の席を所望したが、いいえセンセーこちらにどうぞと、おでん鍋の正面を勧められ、従った。おでん鍋には具はたっぷりとしかも整然と並んでいるのに、だし汁がまだ張られていない。当然湯気は立たぬ。店内の空気はやや乾いている。

店主に挨拶をした。店主も金曜の午後を休みにしてここにある私に礼を言うた。

私は、次に、持ってきた花束を店主に差し出した。

店の中にはすでに3−4の花束が置かれていて、私が持ってきたものは、これらよりかなり小さかった。ついさっき武蔵のエムザの地下でこれを作ってもらった。花を選んでもらうとき、相手は女性ですか男性ですか、と聞かれた。はにかむことも無く女性ですと伝えると、バラを中心に明るい色の花を揃え、ちょうど良いものを拵えてくれた。

店主は丁寧に礼を述べた。

今日は日本酒ですかビールですかと聞かれビールを選択した。いつもは小瓶しか飲まぬが、この日は大瓶でと付け加えた。

あれぇー、14時に開けるって知っとられましたかと、金沢弁で聞かれた。

私はあらかじめ大田さんに連絡し、この日の開店時間を知っていた。大田さんは、近江町の魚屋に勤めていてこの店の常連である。

この店の最後の日に店主は開店時間を早めたのである。

霰の降る金沢の夜に小走りでこの店にたどり着き、アルミ製のチロリに注がれた立山が温まるより先に熱い汁を含んだがんもどきに食いつくのが常であったが、今日はまだ仕込み中であり、6月でもある。

店主は、通常なら5月で終いにするおでんを今夏だけはこの日まで続けていた。

未だだし汁が張られていない事に気づき、私は少し焦った。この後常連が押しかけ、様々なものを注文したとき、私はこのおでんについにありつけぬかもしれぬ。

しかし、そこは自分を落ち着かせ、店主の指示を待った。ビールの栓が開いた後、まずハタハタの煮物を勧めてくれた。頭を落とした、ほどよい大きさのそれが同じ向きに2匹並べられ、ネギを煮たのもが添えてある。

私は、瀬戸内で育ったにもかかわらず、小骨の多い魚を厭う質であった。しかし、ハタハタは別であった。小骨はあっても、それは均等に並び、身離れも良いので、美しく食べることができる。これが、くどくなく煮付けてある。関西のように魚がテカテカするほどには味醂を使わぬのが北陸風である。しょっつる鍋というものを知ったとき、このような骨っぽい小魚を鍋に入れるとは秋田とはよほど魚の捕れぬ場所かと思ったが、この旨さを知ってしまうと、そうでなければ成立せぬ訳があると納得する。

他の客が来ないうちにと大急ぎでこれを食した。途中何回か小骨をがりりと噛んだ。予想通りほどなく常連2名がやってきて、私が最初に所望した奥の席に座った。この2名は私よりも明らかに年配で、あれこれと皿を取ること無く、おばんさい一品でゆっくりと飲み始めた。

そこから、店主は、私の好んだものばかりを次々に作ってくれた。ふくらぎの刺身、小鰯の天ぷら。それをし終えると、寸胴からおでん鍋にだし汁を移し始めた。軽く湯気が立った。空気がいつもの湿度を取り戻し始めた。

この店で小鰯を食うとき、店主の後ろの棚に貼ってある、茶色くなった品書きにある「小鰯」の字を鑑賞する。「鰯」の字が秀逸であり、さらに食欲を誘うのであった。ただ、この時代物の品書きの札の「天ぷら」の下に書かれた300円というのが本当にそうなのかは、長くいぶかった。

奥の常連客2名はなにごとか話に夢中であったので、正面にいる店主と久しぶりでゆっくりと会話をした。3月頃に閉店の話が具体化してより、私は、この店に来る頻度を常より高くしようとしていた。しかし、コロナである。4月の終わりにタッパーウェアにおでんを詰めてもらって持ち帰り数日に分けて食べた。その翌日からしばらく営業を取りやめると聞いた。タッパーウェアを袋に詰めながら、もしからするとこれが終いかもしれぬと感じた。

私は、角間の仕事場から車で玉川町の自宅に戻るとき、下堤町の交差点を通る。この手前に、やはり小さい交差点があり、ここで車を減速して首を右にやれば、この店の赤提灯に灯がともっているかどうか見ることができる。

週末以外の毎日これをやって、ついに6月1日、再点灯を確認した。

6月3日20時頃に自宅に帰り着き、この店を目指した。

予感通り、すでに酔客でいっぱいであった。

ガラス戸を開けると、皆が一斉にこちらを向く。手前からセンセーと声が上がる。

座る余地はなさそうで、私は店主に挨拶だけして辞そうと思ったが、店主が指示をしたのか、自主的にそうしてくれたのか、4−5人が立ち上がり、奥の方へとそろりと移動し、カウンターの角のところに、赤いビニール張りの高椅子がもう一つ入るスペースを作ってくれた。その結果、私は常連女性二人の真ん中に割って入ることになった。

右隣の若い女性の前の灰皿に数本の煙草が見えたので少し戸惑ったし、社会的距離はゼロで、よほど運が悪ければ、これまで散々に気を遣ってきた努力が水泡に帰す。しかし、覚悟を決め、今宵はここで過ごすことにした。左隣の女性も常連で、この店で数度ならずお会いし、お話をしたことがある。

左隣の女性はほぼひっきりなしに私の右隣の女性か店主に話しかけ、時々私に、ねーセンセーと、相槌を求める。右隣の女性はこれに適当に応じつつ、その右隣の紳士に向かって何事かをしゃべる。その紳士は、ほんの時々しか自ら言葉を発せぬが、右隣の女性の話を概ね肯定しているように見て取れる。

やがて右隣の女性が煙草一本を取りだし使い捨てライターで火を付け天井に向けて煙を吐く。それにつられて右側にいた4−5人ほどの何人かが煙草に手を伸ばした。そしてしばらくすると、私から右側にいた客のほとんどが蒸気機関車の如く天井に向かって一斉に煙を吐き出し始めた。

こりゃまいったな、と店主の顔を見ると、一瞬、すまんね、という表情をされたようにも思う。時計を見てあと20分と退店の時刻を決めた。

会話はカウンターの角を囲んだ一団のなかにとどまらず、やがて、店全体が同期する。いつしか私は5人ほど右の客と話をしていた。石油会社にお勤めである。

ぎゅーぎゅーに入っても10人という店であるから、ここでの会話には、しばしば、店主を含めそこに居合わせた全員が参加する。私は新米客であった時からこの時までセンセーとのみ呼ばれた。

センセーはほかにもいた。大学の先生とか、高校の先生とか、日本酒にやたら詳しいのでセンセーと呼ばれる方や、いろいろいた。

居合わせた酔客から、医学の事を詳しく聞かれると、せっかく飲んでいるのにと、辟易することもあるが、大概はたわいの無い話で、帰って寝て翌朝目覚めると夕べいったい何を話したのか大概忘れていた。

いまは来ぬが、外国人旅行者がよく訪れる店でもあった。ガイドブックにでも出ているのかと思うが、話を聞くと大抵どうも飛び込みのようである。赤提灯の力か。一度、ハンブルグ(独国)から来た循環器医の親子に出会い、久しぶりにドイツ語で会話した。もちろん大半は英語で。彼らが料理と歓待にとても喜んでいることを店主に通訳すると、目を細めていた。

話を6月26日に戻す。

まもなくご婦人が一人で来店され、私の左隣に座られた。店主はその方にも丁寧に何事かの礼を述べた。

店主とこのご婦人の会話に巻き込まれ、ほどなく私はこのご婦人とも直接話し始め、店の中の調度や器具のことに話が及んだ。

ものすごい時代物に見える栓抜き、これには、リボンシトロンであったか全く知らぬ飲み物の名前が刻まれている。はじめ分厚くしかし大晦日の日に一枚きりになる日めくり、そして、食器棚に貼られた大きな品書きに話が及んだ。10数枚の品書きのうち、真ん中の3枚は、紙がまだ新しく、手も違う。小鰯の天ぷらは右から3番目くらい。一番右は必ず刺身で、これは、よくよく思い出すと、時々種が変わっていたように思う。つまり、フクラギ400円とブリ500円が季節によって入れ替わったように思う。このいずれかを私は必ず注文した。途中からは何も言わずともこれを用意してくれた。寒ブリを頼むと緑色の紙にまいたものを冷蔵庫から取り出し、木のまな板の上で、小さい体を揺らして切ってくれた。

鰺も時々置いてあって、非常に良い状態であれば刺身を勧められた。私はネギと叩いたものを好み、おろしたての生姜をもらって食べる。これを作るときのトントントンという音を聞くのが好きであった。

香箱蟹も、解禁期に事前に頼んでおけば、近江町で良い形のものを揃えてきて、捌いてくれる。店主によれば、彼女の幼少期には、香箱なんぞは、子供のおやつであったという。店主のかに酢は、酢と醤油のみ。味醂など使わぬ。脚と外子を片付け、内子と蟹味噌を食べ終え、箸を置くと、店主が、甲羅のなかを見せろという。あーだめ、こことここがまだ食べられる、ここに箸を入れて、とダメ出しが来る。その言葉に従うと、膜で覆われた穴の向こうにまだ食べることのできる部分が出てくる。それも片付けて甲羅の中をピカピカにして、漸く合格する。しかし、肝心なのはこれからで、店主は、甲羅を回収し、次に、チロリではなく片手鍋を用いて立山を60-70度ほどに熱し、これを甲羅のなかに注ぎ入れる。これを私に返し、飲み干せという。これを飲むとまず酔いがフーッときて、次に蟹の滋味が脳天を突き抜ける。酒を嗜まない店主であったが、その飲み方は誰よりもよく知っていた。北陸のものの食べ方も、酒の飲み方も、もしかすると、人生の楽しみ方も、ここで教わった。

私の実母は、幼少期から、世に旨いもののあることを私に叩き込んだ。広島、小倉、博多、熊本、松山など、私の育った町から手軽に往来できることのできる場所に赴いては、絵画展の見学や観光などのついでに宿泊し、小学生であった私でも旨いと思うものを食べさせた。私は、これらの地に出張する機会ごとに、母親が私を連れて行った店を探し出し、訪ねている。数年前、熊本キャッスルホテルのメーンダイニングを訪ねたが、熊本城を真正面に見た当時のフレンチレストランは既に無く、コキーユをもう一度味わうことはできなかった。しかし、この後を引き継いだメーンバーに行き、ジントニックを飲みながら、バーテンダーを相手に母の思い出を語った。彼はただ黙って聞いてくれた。実母は、私の服装にも気を遣い、ジーンズとはアメリカの幌馬車を覆う粗末な布であるとして、これを穿くことを決して許さなかった。このため、この歳に至るまで、一度たりとこれを身につけたことが無い。長じては、平生私が安物のコートばかりを着るのを我慢できず、アクアスキュータムを何枚も送りつけてきた。大学に入って酒を飲むようになると、父親が所蔵するウイスキー・ブランデーのうち一番よいものだけを宅急便で送って来て、安酒を飲まぬように躾けられた。それが今では、武蔵のローソンにおいて時々黄色の角瓶を購入するのが楽しみで、近江町の気っぷの良い魚屋さん達との会話を求めておでん屋や居酒屋に通う、ただのおっさんである。

やがて、品書きの鰯の字の立派なのに話が及ぶ。これは、生前のご主人がお書きになったという。真ん中の3枚は現在の店主の自筆で、よって字体が異なる。真ん中の3枚のうち一枚は松美屋風お好み焼きとあり、これは、店主の最近の創作であると聞いたことがあった。ご主人の時代には無かったメニューなのだ。一度試したが、ソースの代わりにケチャップを使った独特のものであった。

はたして、この会話によって、長く抱いていた疑問に漸く解答を得た。なぜ品書きの大半が300円なのか。勘定をするとき、他の店よりは格段に安いのであるが、品書きの値段の割には高いと思った。ここの勘定は、大抵、2,500円、3,000円、ほんの時々2,000円か3,500円。店主は大体のところは計算している風であるが、合計は必ず500円刻みである。

品書きの値段は実際の値段とは違うのだ。しかし、ご主人の書いた品書きは捨てられも剥がすこともできぬ。これが安すぎる品書きの真相であろう。

これらの品書きは寸胴とともにせせらぎ通り沿いの同業者が譲り受け店内に置くのだという。また見えることがあるやもしれぬ。

もうこの日で終いであるから、私はビールをあおりながら、店の中をもう一通り眺めた。よくスポーツ番組をつけっぱなしにしていたテレビは既に無い。店主はああ見えてスポーツ通であった。写真が多数飾られていて、ご主人と山に登られた時のものもあった。他の客がいないとき、店主がひとつひとつ説明してくれた。

だし汁が温まり、名物の一つであったメギスのつみれが腕に一つずつ入れられ、皆に一腕ずつ振る舞われた。ネギの小切りを少しだけ散らしてある。

メギスのつみれの適度にジャリジャリとした舌触りを味わい、思い出深いだし汁をゆっくり飲み干すううちに、会話もひと止みし、自然と、この店に初めて来たときのことを思い出していた。

おでんと墨書した赤提灯に目が行った位であるから、寒い日だったに違いない。金沢に一人で来て5−6年の頃である。大変狭い間口にガラス戸が2枚きりはまっているだけの店である。カウンターの手前に誰か座れば、ガラス戸越しにその陰が見える。

その日は曇りガラスになにものの姿も映っていなかった。ただ赤提灯に灯がともり、中に電気がついていることはわかった。その手前の寿司屋には1−2度行ったが、滅多に立ち入らぬ通りであった。

この日どうして菓子屋の角を右に曲がったか覚えてはいない。

ややドキドキしながら、ガラス戸に手をかけた。10センチほど左に開くと、カウンターの真ん中に両手をついて背の高い椅子に腰掛け、首を傾けて、右手上方のテレビに見入る店主がいた。しかし、湿気のために、眼鏡は一種にして曇り、私はこれを外すことを余儀なくされた。

眼鏡を外し、ややかすむ眼で店内を見渡すと、他に客はおらず、紙の巻かれた分厚いカウンターがかな尺型に置かれていて、その向こうに湯気を立てるおでん鍋があり、またその向こうに店主の定位置があるようであった。壁にはベニヤ板が張られ、上着を掛けられるようにハンガーが7個ほどの鉤にそれぞれカーブを右側に揃えてぶら下がっている。昭和を生きた者が懐かしさを感じる佇まいである。店の空気はおでんの湿気をたっぷりと抱えて重い。

ハイハイ、とこちらを一瞥すると、立ち上がり、曲がった腰をそのままに、奥のかなり狭い隙間を通過してカウンターの中に入り、私をおでん鍋の正面に案内した。いつの時代のものかという赤いビニール張りの四本足の細い椅子が並べられ、その四箇所の接地点はおそらく平面をなしておらず、体の向きに応じて椅子はカタ、カタ、と傾いた。おまけに、表面の摩擦が少なく、気をつけないと滑り落ちる。まずこれに順応するのに20秒ほどを要した。

落ち着いて座り正面を向くと10数枚の品書きの札が、右手には小型の黒板があり、小さめの字で、様々な品が、白いチョークで縦に書き付けてある。

暖かい、熱くはない、おしぼりをくれる。多分手洗いである。

お飲みになりますかと聞かれ、年季の入ったチロリが目に入ったので、迷わず熱燗を頼んだ。1合。おでん鍋にはチロリ一つを入れ込むための穴がひとつ開いており、立山の一升瓶をヨイショと傾けこれを満たすと、そろりとそこに据えた。

これを待つ間に目の前の鍋に浮かぶおでんを品定めした。私の好みの澄んだだし汁で、具の色は煮染まってはいない。佇まいは合格点である。はい、なんにいたしましょ、と聞かれ、最初に頼んだのが、多分がんもどきである。この日からこの店に通い始め、それぞれのおでんネタの位置が毎度微動だにしないことをすぐに感じた。がんもどきはいつも中央で斜めに重ねてあり、客から見ると、その右に車麩が浮き、左に、丁寧に角を取った大根が沈んでいて、すじ肉だけは、特別に仕切られた場所にある。大好物の糸こんと卵は、その物理的な性質から、常にだし汁の底深くにあり、これらを頼むと、店主は、菜箸を縦に使って捜し回る。ネタの比重の軽重がおでん鍋の宇宙を形作る。

練り辛子をたっぷりに塗った小ぶりのお皿に載ってそれはやってきた。箸で一部を切り取り、慎重に口に運んだ。口の中で潰すとだし汁がわっとあふれた。薄めの味付け。しかし、これは美味い。金沢のおでん屋は既に大概の店を知っていた。どこも例外なく美味い。最初の一口で美味いと思う。この店のだし汁は、最初印象が弱いが、ほどよく抑制されたうまみと塩分で、ネタを食べた後も、最後まで飲み干すべきと思わせる味である。

この日は、とにかくおでんをいろいろに試すことに熱中し、カウンターに魚介の惣菜が何鉢か置かれているのが全く目に入らなかった。ハタハタや中くらいの鰯を煮たものとか、小鰯を揚げ浸しにしたもの、梅貝の煮たもの、これは最後まで食べなかったが、沢庵を薄く切りなにものかといっしょに煮込んだ北陸の郷土料理などがよく置いてある。しかし、これらは、色と佇まいがあまりに地味で、最初は目を引かない。ポテサラなど置けば目立つのであろうが、そういうものはこの店には無い。

客は私一人きりであったので、自然と話を始めた。というより、はじめは、尋問をされていたに近かった。どこに勤めるか、家は近所か、家族はあるか、そして、20分ほどのうちに、金沢大学に奉職すること、がん研究者であること、土曜のみ患者を診る内科医師であること、家内も同業者であり、子供のうち一人は東京に出て勉強していることなど、名前と電話番号以外のおよそすべての個人情報を与えた。身ぐるみ剥がされた感じである。

次に店主の身の上話が始まった。

名前は幸子さん。しあわせのこである。

2

店主の身の上話は、この時だけで無く、やはり他に客の居ぬ時に数度ならず聞いた。お嫁入りの時であったり、ご主人のおられた時代であったり、話す都度に時代が変わるが、それらをつなぎ合わせると、この人の一生のあらましが見えてくる。

名門の誉れ高い石川県立金沢二水高校を卒業され、はじめ銀行にお勤めをされたが、親の進めた縁談によって、退職し、ご主人と結婚された。結婚の日がご主人と初対面であったと聞いたような気がする。お嫁入りの日の前後のこともそのときの心境を含め何度か聞かされた記憶がある。いまは腰が曲がっているが、顔立ちは整い肌も年齢の割にはであるから、さぞかし美しい花嫁姿であったであろう。

姑の思い出を語られたこともあった。ご主人は酒屋関係であったかからか、そこは私も聞いたことを定かに思えていないが、いまのお店の入る建物の1階を借り47年前に開業された。店主は、まさか客商売をするなど思いもしなかったと一度ならずぽつっと漏らしたことがある。ご主人はしかし若くから大病を繰り返した。大病を煩ってからかえってお二人は活動的になり、外国旅行に出かけたり、登山を楽しんだりされたらしい。しかし、何度目かの大病でご主人を喪う。

子は3人らしく、幾人かはすぐ近くに居るらしい。一度お子達のどの方かのお嫁さん候補というのが来店されていて、ちょうど他の客が摘んできた様々な山菜があったので、これをどんどん天ぷらにしてもらい、この女性も含んで居わせた客皆一緒で大いに食したことがある。コゴミや行者ニンニクが美味かった。この時、彼女の物腰を聞き取り、この方を娶られる男性は必ずや幸せになるであろうと感じたのを思い出す。

健康の相談にも乗った。しかし、どうも店主に内科的な問題は多くないようで、大半は、セサミンは効くか、グルコサミンは効くか、黒酢ニンニクはどうか、という類いの質問で、これに答えるのは案外に難しいのであるが、酔いが覚めるような深刻な話は一度たりともされなかった。

目下の最大の楽しみは、カラオケであるらしい。それも、カラオケ屋に行ってただ歌うのでは無く、稽古場に通い、専門の教師についてレッスンする。先生の吹き込んだCDというのを一枚頂戴した。年に一度、駅前の県立音楽堂ホールを貸し切り、バッチリとメークし、ドレスを身にまとい、フルバンド、バックダンサーつきで、発表会をするのだという。来るか?と問われたことは無い。そう聞かれるのが少し怖い気もする。

店主の齢は、7年前に享年74ほどで急死した私の実母が生きていればちょうど同じくらいであった。ただ、実母は、この温和で飾りっ気の無い店主とは全く違う性質の人間で、近所のスーパーに出かけちょっとした買い物をするにも、アクアスキュータムのスカートにこぎれいなブラウスを合わせるような女性であった。一度私が近所の公園に居合わせたガキ大将との喧嘩の末、眼に傷を負い、父親が検眼をして、片方の角膜に裂傷を発見したとき、脱兎の如く駆け出し、この子らを徹底的に怒鳴りつけていた。生涯にわたってお洒落でそして戦闘的なひとであった。

この1年、店主との話は、身の引き方に及ぶことが多かった。件の時代物の栓抜きが掛かっているすぐ横に保健所の発行した飲食店営業許可証の茶色い金属プレートがうちつけてあり、そこには、平成32年6月26日までとある。ある夜、この更新はせぬという決意を打ち明けられた。一瞬私の心が曇った。私はまだ10年ほどは金沢に居なくてはならない。最重要の止まり木を喪う。もうちょっとと言いたいところではあるが、寸胴からおでん鍋にだし汁を移す小鍋を支える右手のか細いのを見るとそうは言い出せなかった。

通い始めは、品書きや黒板にある品をよく頼んだ。野菜炒めもある。これは、キャベツや人参を刻むところから開始するので結構な時間を要した。これに豚肉を入れるか赤いウインナーにタコさんの切れ目を入れて投入するか聞かれる。焼きそばもできる。やはり相当な時間が掛かる。小さく軽いフライパンを使うので混ぜるのが大変そうである。他に客が多いと、こういう風なものは頼みづらい。手のかかるものは刺身くらいにしておいて、あとは、おでんと、もう出来上がっているおばんさいをもっぱら注文する。客が少ないと今度は話に夢中になり、頼み損なう。ある夜、一見さんの若い旅行客7−8人がどやどやと入ってきて、真ん中にいた私は彼らに席を譲って奥に移動した。それを引率する年長者が席を変わらせたお詫びに私に熱燗を1合奢らせて欲しいと言ったのを私は固辞した。店主にはこれが鼻についたはずである。彼らは、次に、食欲に任せ、ひとりひとりてんで好き勝手に注文をし、1時間以上もの間店主はてんてこ舞いだった。しかし、店主は全部の注文をこなし、旅行客らはすっかり満足し、勘定を頼むと、常連ならば耳を疑うような合計額を告げた。その旅行客らは一遍に酔いが覚めたようであった。ペナルティーと直感した。おそらくはまたあの品書きを額面通りに取っていたのである。大人の勉強である。心のなかで笑った。

夏期におでんをやらぬのを知らずに入ってきて、おでんと提灯に書いてあるのにと舌打ちをする観光客もいた。しかし、我々にとってここはあくまでおでん屋である。夏期は、おでんのかわりにいろいろと思わぬものを用意してくれていて、これを愉しむ。これは冬の味覚であるが、赤海鼠(なまこ)もよく置いてあって、店主は、未処理のものを買ってきて、内臓を取り出し、自家製のこのわた(海鼠腸)を拵える。これを熱い日本酒と口に含むとえもいわれぬ心地になる。そのほか、近江町で店主が気に入った地魚を少しだけ仕入れてある。大田さんが魚を持ってくるのに遭遇したこともある。最後の日に食したメギスは多分ニギスのことであるが、プリッとしたのが、春秋に出てきて、これを塩ゆでにし、生姜醤油で食べさせる。

ぬか漬けも店主の得意であり、時々、よーく漬かったキュウリをぬか床から取り出し、切ってくれる。店主はこれを宿漬けと呼んでいる。しかし、私が乳酸の香りのする酸っぱい古漬けよりむしろパリパリの浅漬けを好むのを知ってからは、前の日に仕込んだものをすぐに出してくれるようになった。

3

ふたたび6月26日。

表に一台の車が止まったのが曇りガラス越しに見えた。中からワイシャツ姿の若い男性が降りてきて入店した。しかし、これは客ではなく、金沢市の保健所員であった。彼は、店主に向かい、今日でこの店の保健所の許可は終わりで、更新されていないようですが、大丈夫ですか?と切り出した。

店主は、はい、今日で閉店です、鑑札は明日お返ししますと答えた。保健所員は納得して、なおも2−3言なにごとか付け加えると、また車に乗り込んで去って行った。

ほんとうに終わるのだと思った。

いつの間にか、ガラス戸側にも2−3名の常連客が来て座っていた。スーツ姿で入店してきて、3分間ほどのあいだ立ったまま凄い勢いで煙草をふかし、店主から水を一杯もらってくっと飲み干すと、どうもお疲れさん、また、と言い残して、忙しそうに去って行った証券会社の男性がいた。車を横付けにして降りてきてガラス戸から顔だけのぞかせて別れを言ったワイシャツ・ネクタイ姿の男性もいた。

小鰯の天ぷらまで食って、すでに腹はいっぱいである。しかし、最後にこれだけは食さねばならない。

店主にがんもどきと糸こんを懇願した。

いつものように盛られだし汁を張って手渡された。

手元の空いた皿が増えてきたので、すでに少し整理されすっきりとしたカウンターの上の配膳台に何皿かを戻した。雑然としたなかで最後のおでんを食したくなかった。

これももう食えぬのかと慈しみつつまずは糸こんの塊をズッと吸い奥歯でプツプツと噛みちぎった。がんもどきはなるべくにゆっくり食った。これに混ぜられた銀杏を口中で転がした。残っただし汁は喉がトンと鳴るまで飲み干した。松美屋の味にさよならを言った。

店主は先ほどからほかの常連客との話に加わっていた。

左隣の女性は勘定を済ませ、惜別の情を述べ、店を辞した。

すでに2時間あまりをそこで過ごした私は、ついにその時が来たと思った。この日は、14時ちょうどに私が入店した。多分このまま客は途切れず、23時頃までの長丁場になる。そろそろお暇しよう。

京都に向かうサンダーバードに乗る予定があり、今日はこれで辞すると告げた。店主はすでに涙ぐみ、勘定のことを言わないので、こちらから、どうか計算をしてくださいとお願いした。すぐに3,000円と言われ、5,000円を渡し、お釣りを固辞した。お花のお礼も繰り返し、何度も頭を下げていた。

この店の常連は実はLINEでつながっていて、おそらく閉店後2−3週の後に店主の慰労会を開く予定で、そこには当然店主を招くであろうし、お互いの携帯電話の番号を知っていて、病気で困ったら連絡するようにも言ってある。私は店主の居宅の場所まで知っている。従って、これは決して店主との永訣ではなく、陽関三畳をやるような場面では無い。

しかし、このお店とは永訣である。家主に返した後は建物全体の取り壊しが決まっている。名残惜しいが、荷物を掴むと、さっと立ち上がり、椅子を戻し、長らくお世話になりました、お元気で、と告げた。店主は泣いていた。ガラス戸をいつもより少しゆっくりと締め、看板の写真を撮影し、踵を返した。まだ陽は高い。

帰途、近江町市場を抜け、クリーニング屋に出しておいたズボンとシャツを引き取った。応対したのは、いままで見たことのない新顔の店員であった。きれいになった服を引き取り、ありがとうと述べた刹那に眼から涙が溢れ出た。これを悟られずに店を出た後、武蔵が辻のバス停を抜ける頃には滂沱として流れる涙を止められなくなった。しかし、マスクをしていたことが幸いした。これを上方にずらし、顔面をひろく覆ってそこをやり過ごした。近江町市場からエムザ側に渡る信号が赤から青に変わる時間が長く感じられた。

(終わり)

* まだ推敲しますので、順次文章は変わります。

メギスのつみれ汁
写真を取り出すとほぼ記憶通りであったが小鰯の天ぷらは右から4番目値段は400円とある
最後の最後の一皿

投稿者: 髙橋 智聡

ピアノを50年以上弾いている。芸事が大好きで、ほかに、茶道、義太夫三味線、能管、ドイツリートなどいろいろ手を出したが、すべて下手の横好きだった。西洋の古典音楽と日本の文楽をこよなく愛する。この15年ほど、夏山行にはまっているが、太ってしまったのと、まとまった時間がとれないのが悩み。金沢からなら、2−3時間もあれば、北アルプスの主要な峰々の登り口に到達する。そして、虎ファン。現、金沢大学がん進展制御研究所教授、内科医。研究の話は、HPで。 http://omb.w3.kanazawa-u.ac.jp/index.html

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