森田愛之介師匠の思い出

森田愛之介師匠の思い出 令和2年7月14日〜

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昭和がまだ終わらぬ暑い日の午後、私は大阪日本橋国立文楽劇場のホールの入り口において直立不動でその人と相対した。その人とは、五代鶴澤燕三、人間国宝である。

文楽の定期公演中にこのひとが広間に挨拶に来ることは絶対にあり得ぬ。この日は、豊竹咲太夫の素浄瑠璃の会に来て、愛之介師匠が燕三師匠の姿を認め、私を呼んだのである。

素浄瑠璃とは人形の居ぬ文楽である。語りと三味線だけを純粋に愉しむ。この会において咲太夫は「逆櫓」を語った。三味線は鶴沢清介であったと思う。「ひらかな盛衰記」3段目の切である。

櫓を使う時のかけ声を「やっしっし、やっしっし」と表現するが、咲太夫のそれは「ししやっしっしーししやっしっし」と聞こえた。「逆櫓」ではこれを30回くらい繰り返す。ここは語りの最も苦しい場面で、言葉を分離して発することが極めて難しいのである。ここに差しかかった時客の一部は小さく拍手をしていた。

文楽人のなかで私が最も尊敬するのはまさしくこの五代鶴澤燕三である。

愛之介師匠はこの燕三師匠の直弟子であり、私は、愛之助師匠に太棹の手ほどきを受けていた。つまり、そう呼ぶことがもし許されるなら、私は、五代鶴澤燕三の孫弟子である。

私の二人目のピアノの師は、東京藝術大学において、ハンス・カンというピアニストのレッスンを受けたことがあったという。レッスンが厳しく、あだ名は、ハン・スカンであったという。記録には出てこぬが、このピアニストはリストの孫弟子であったという。ウィーンのピアニストであるから、そういうことは多分にあり得る。おまえはリストの玄孫であるぞとよく言われた。しかし、たくさんの弟子をとって生活の足しにしたリストの玄孫はたぶん何万何十万人と居るであろう。

私の最初のサイエンスの師匠は畑中正一先生であり、この人がノーベル生理学・医学賞と細胞培養の培地によって有名なレナート・ダルベッコ先生の直弟子であることは有名である。これを学生達に話すとただダルベッコ・モディファイド・イーグル培地(DMEM)の開発者ということだけで喜ぶ。ダルベッコ先生がどうしてノーベル賞を受けたか問うても誰も答えられぬ。ウイルス発がんも遠くなりにけりである。このごろテレビで盛んに出てきて、学生の皆さんもほとんど毎日実施するRT-qPCRの’RT’が何か思い出してもらいたい。もしも’real time’と答えたら、ジャーナルクラブ担当3回連続のペナルティーを与えてもよい。

もっとも、この頃京都大学の構内を歩けば、ノーベル賞学者の弟子も孫弟子ももしかしたらその又弟子もうじゃうじゃしているから、これはたいしたことはない。ボストンにいれば、況んやである。

ただし、五代鶴澤燕三の孫弟子は、少し吹聴してもよいかもしれない。

この人の太棹の音色を初めて聞いたのは、私が大学の一回か二回生であった初春である。

2

この頃、私には大阪の地理などわからず、梅田駅からタクシーを拾うと、日本橋の文楽劇場と告げた。御堂筋、日本橋筋と来て、ここに降り立ち、ホールに入ったら既に最初の演目が始まっていた。

寿式三番叟である。能の「翁」を人形浄瑠璃に写したこの演目は五穀豊穣を祈ってしばしば正月に奉ぜられる。中程から、横並び7丁の三味線による合奏が始まると、思わず踊り出したくなるような気分になる。このメロディーを聴いたことのある人は大阪にあれば多いのではないだろうか。何か催し物をやっている時に文楽劇場の前を通るとテープでこの節が流れていることがある。

後に私もこの曲を愛之介師匠から教わる。

この日の中心演目は、歌舞伎でも代表的な出し物の一つである、「義経千本櫻」初段から四段目であった。四段目の「道行初音旅」は、吉野山の櫻を見せる舞台背景の美しさでも名高く、歌舞伎ではこれを独立に演ずる場合「吉野山」と呼ぶようである。先代の猿之助が忠信(源九郎狐)を「四ノ切」(河連法眼館の段)までやったのを南座辺りで観た覚えがある。

吉野に潜伏しているかもしれない義経を捜す静御前が、初音の鼓を打つ場面が有名である。

文楽では大概初段から四段まで通してやる。実は五段というのがあるらしいが、観たことはない。「河連法眼館の段」が派手なので、ここで止めるのが良いのだろう。

デジタルライブラリーを助けにこの日の記憶をたぐってみる。

「渡海屋・大物浦の段」、豊竹咲太夫と鶴澤清介。逆櫓の素浄瑠璃の二人である。二人とも脂がのってゆく過程にあったはずである。私は清介の三味線の裂帛の切れの良さにまず惚れた。私より干支が一回り上の当時の清介は真っ黒な髪を清楚に分けていたが、最近はなにも無い。弾く方も聴く方も歳を取ったものだ。

有名な「すしやの段」は、竹本越路大夫と鶴澤清治。越路大夫は当時の文楽にあって唯一無二の存在であった。初めて聞いても、ああ、これしか無い、と思うような落ち着いた直截な表現で、言葉を綺麗に語った。彼が吹き込んだ「菅原伝授手習鑑」四段目切「寺子屋」のカセットテープを長年愛聴した。平成になるかならぬかに病気で退いたので、最晩年のすしやを聞いたはずである。祇園歌舞練場の温習会に行ったときに、芸子さんか誰かを伴って舞台を見ていたのを見かけた。彼の引退後であるから、多分、それが、私が越路大夫を見た最後である。

そして、「河連法眼館の段」の奥、竹本織太夫に五代鶴澤燕三、ツレ三味線に、燕二郎(現六代燕三)である。五代鶴澤燕三の三味線は、力強くしかしどこにも力が入らず、繊細の極みであった。文楽廻しに載っていると、三味線よりもずっと小さく見える。お尻のつき方も独特なのだろう。愛之介師匠も三味線を持つと同じように小さく見えた。三味線をおおきく見せ、自らの体は最小に見せる。これぞ芸だと思った。素浄瑠璃の会において直立でお会いすると、やはり小柄な方であった。燕三師匠の三味線は数年間聴くことが出来た。しかし、公演中に倒れ、そのまま帰ってこなかった。倒れたときに弾いていたのが、「逆櫓」であったという。

3

その日愛之介師匠が燕三師匠に挨拶する場に私が通り合わせた。

愛之介師匠がチアキさんと私の名を呼び手招きをした。

そこに誰が居るのかすぐに判った。

緊張しながら近づくと、浅い黒色のスーツに身を包んだ燕三師匠が奥様とおぼしき女性とホールの真ん中の扉の前に立っていた。

愛之介師匠は、この人は、京大の学生さんで、今、太棹を仕込んでいるところだと説明したと思う。

燕三師匠はにっこり笑って私の顔を見ると、「ああ、そうですかー」、と答えられた。

私は、名を名乗る以外、何もできなかった。

定期公演中にこういう機会は決して得られぬ。咲太夫には悪いが来て大変得をしたと思った。

加えて、この日の往路、京阪電鉄の北浜駅から堺筋線に乗り換えて、ふと前を見ると、鶴澤清介が真正面に座っていた。

これに気付き、右隣にいた未来の家内に耳打ちをしていると、むこうも客と気づき、「これからですか?」と聞いてくれたと思う。

「はい、これから素浄瑠璃の会にお邪魔します」と答えたと思う。

「それはありがとうございます」と言われた。

「私も太棹を」とまで自分を語ったかは覚えない。

日本橋の駅で、「それではあとで」となった。

幸福な日であった。

清介は、ごく最近、紫綬褒章を受章した。

五代燕三の直弟子森田愛之介は、祇園甲部の芸子であった。

齢は当時70ほどであったろうか。立ち居のキリリとした、見た目はちょっと怖い芸子であった。

実際に、野暮な客には実に冷たかった。

京都そして祇園町甲部のプライドを前面に押し出したような芸子である。

しかし、私には、実の祖母のように優しくしてくれた。

清水宏氏の仲介で、愛之介師匠に弟子入りし、しかし、学生ということで、清水宏氏と比較すると破格に僅かな稽古料しか取られなかった。

稽古場が、花見小路のお茶屋「𠮷うた」であった。

「𠮷うた」は、この場所で、昭和初期に長田幹彦が「祇園小唄」を作詞したことで有名である。

月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ

座敷遊びをしたことの無い輩でも、この詞もメロディーも知っているだろう。

三味線の手ほどきに習うのが「祇園小唄」である。舞子をお座敷に招けば、必ず最初にこれを舞ってくれる。

私は、長田幹彦が「祇園小唄」を作詞した、同じお茶屋、おそらくは、同じ部屋で「祇園小唄」を習った。

上手く弾けるようになると、愛之介師匠が上記を唄ってくれた。

長田幹彦は吉井勇と親交があり、共著もある。

吉井勇の短歌や作詞を私は非常に好む。

「酒ほがひ」から

かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるる

これは、白川に行けば、歌碑が建っている。

「ゴンドラの歌」(作曲:中山晋平)

いのち短し、戀せよ、少女、
朱き唇、褪せぬ間に、
熱き血液の冷えぬ間に
明日の月日のないものを

これは、当時流行歌になった。

酒と恋の話が多く、長田も吉井も当時「放蕩文学」と批判された。

私も放蕩児であった。

玄関に美しい松の木が植えられているのが有名で、入ると、真正面におくどさんが見渡せ、靴を脱いで右に上がり、急な階段を上ると、そこが座敷で、愛之介師匠はいつも床を背にして座っていた。

大概清水宏氏が先に稽古を受けていて、私は、それを手前の部屋からじっと聴いていた。

「三十三間堂棟木の由来」の「木遣り音頭」、「義経千本櫻」から「さかや」などを稽古しておられた。「さかや」の稽古は熾烈を極めた。

太棹は愛之介師匠自ら祇園町内で見繕ってきてくれて、昭和10年という書き物の入ったものを10万円で譲り受けた。

しかし、当時学生の私は、これを一括で払えず、清水氏に立て替えてもらい、分割で返したのを覚えている。

私は、「祇園小唄」を皮切りに、「三番叟」、「木遣り音頭」、「野崎参り」など稽古を付けてもらったと思う。

譜面はなく、太夫の語りが書き付けてあるだけで、正対した師匠の指の動きを目で追う。忘れればそれで終いである。

「野崎参り」は、ちょっとロックで、2台の三味線で上と下を弾く。これは、一生懸命稽古して、婚約のパーティーで、師匠に上を弾いてもらい、友人達に披露した。

師匠からは、筋が良い、クラシック音楽をきちんとやったからだ、といつも褒められた。

その当時の文楽研修所の年齢制限が26であったので、少しだけ気持ちが揺れたことはある。

自らの太棹を持参せねばならないので、いつも自家用車を使った。

祇園甲部の歌舞練場の駐車場を借りた。

当時の花見小路は、今と違って、昼間は誰も居ない。

三条通から入って、四条通を越すと、苦も無く、歌舞練場に至る。

当時は守衛さんに駐車代を直接に払った気がする。

白のMark IIのトランクから愛器を引っ張り出すと、右手に持ち、花見小路を北に返して、𠮷うたを目指す。

まさに放蕩児であった。

古く、三高の学生にはお茶屋から大学に通う者も居たのだから、これくらいは、ある、と自分で思った。

大学の2−3回生くらいの話である。

5

しかし、2019年7月9日、𠮷うたは、焼け落ちた。8日に起きた火災に類焼し、報道写真で見ると、稽古場であった2階は、ほぼ焼けていた。

師匠も清水氏ももしこれを知れば、嘆くであろう。

師匠は、祇園町の人であるから、消息は敢えて追わなかったが、もう二十数年前に重病の床にあると聞いたので、もうおられないだろう。

最近祇園の人に会うと甲部の森田愛之介を知っているかと尋ねてみるが、答えを持った者とまだ会わない。

清水氏は、私が東京に出た1年目に訃報を受けた。

𠮷うたの松は、しかし、延焼を免れたのだという。近々これを探しに行こうと思う。花見小路は今閑散としているはずである。

兄弟子清水宏氏について語る。

清水宏氏は、私の高校の同級生清水光君のお父様である。京都の醍醐に居を構える。

清水光君とは高校1年生から一緒で、寮も下宿も一緒だった。

彼は、現役で東大理1に合格し、私は、遅れること1年で、京大に入った。

合格してほんのまもなくの頃と思う。京都駅から市営地下鉄に乗ろうとすると、後から、名を呼ばれた。振り返ると清水宏氏がいた。

清水宏氏とは二度会っていた。最初は、私が高3の時に、今出川にある近畿予備校の夏期講習を受けるために京都で1週間を過ごした時、夜、ホテルまでに迎えに来てくれて、盛大にもてなしてくれた。

もう一度は、卒業式の日に松山の下宿で。

この講習会は、京都にお家のある清水光君も来ていたのだ。

この時確か17歳であったが、新都ホテルのメーンバーであるラグーンに連れて行かれた。酔って次の日の数学の講習の予習ができず困ったが、京都の夜の世界に踏み込んだ第一歩だった。

京都大学がぐっと身近に感じられた。

一緒の電車に乗り込んだ。この度はおめでとうと言われ、これから、祇園に飲みに行くのだけど、君も来たまえと誘われた。

鞍馬口まで行くところを四条で降り、彼について四条の地下通りを歩いた。

鴨川の向こう側は未知の領域であった。

あるビルのエレベータを降りると会員制と札の罹ったドアを無造作に押して中に入った。これに続いた。

(続く)

撥 象牙製である
駒 鼈甲製で鉛を仕込んである
糸 3種類あり 一の糸が最も太い
未修繕の愛機 祇園町の愛好家から譲ってもらった 
私が稽古に通った祇園花見小路のお茶屋𠮷うた(焼失前)
もちろん友人の払いである。愛之介師匠もかつてはこれくらいであったはずである。

投稿者: 髙橋 智聡

ピアノを50年以上弾いている。芸事が大好きで、ほかに、茶道、義太夫三味線、能管、ドイツリートなどいろいろ手を出したが、すべて下手の横好きだった。西洋の古典音楽と日本の文楽をこよなく愛する。この15年ほど、夏山行にはまっているが、太ってしまったのと、まとまった時間がとれないのが悩み。金沢からなら、2−3時間もあれば、北アルプスの主要な峰々の登り口に到達する。そして、虎ファン。現、金沢大学がん進展制御研究所教授、内科医。研究の話は、HPで。 http://omb.w3.kanazawa-u.ac.jp/index.html

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