大断捨離

大断捨離  2020年7月2日〜5日

一生に一度あるかないかという大掃除をやった。コロナで在宅勤務が勧奨され、管理者として見張っておかねばならぬ大学院生たちも登所を制限された。私の仕事は、一日Macに向かってただひたすら仕事をするほかは、週一回のラボミーティングを主催することと、あくびの出そうな幾多の会議に出席することであり、ラボミーティングはZOOMになり、そのほかの義務はなくなってしまった。向こう三ヶ月学会の予定も無い。無理に金沢にいる必要がなくなり、GWをはさみ連続2週間あまりを京都で過ごした。この間、家内が、家中の物入れをすべて開け、「断捨離!」と雄叫びを上げながら、大掃除を行った。たくさんの不要のものを捨て、押し入れの風通しがかなり良くなった。押し入れや物入れになにものか懐かしいものを発見するたびに当方に見せに来ては長いおしゃべりを始めるので、しばしば作業が進まぬ。私の書斎は、もとは書斎であったが、私が単身赴任中にただの物置と化し、それは裁判所に面した東側のベランダにダイニングから抜ける通り道でもあったが、そうはできほどにものが積まれていた。しかし、そこに道ができ、ベランダに最短距離で出られるようになると、はるばるIKEAに赴き小さい折りたたみテーブルと椅子2脚を買い求め、陽が落ちかかった頃にベランダでワインを飲めるようにもした。

家内の興味は次に私の蔵書へと移った。書斎に据えた背の高い木製の書棚には、私が中学時に親に買い与えられた20巻に及ぶジャポニカ百科事典が並んでいる。高校の寮の私の部屋にも一緒に来て、大学・研修医・大学院生時代も手元に置き、留学中はさすがに実家に預けて行ったが、帰国して中京に現在の我が家を購入して真っ先に実家からこれを移した。中学生の時、私は、文庫本でも読むように、百科事典の様々な巻を読むことを愉しんだ。私自身は、ひとつはアコースティックピアノを置くために、もうひとつは、この百科事典をお迎えするために、長い長いローンを組んで家を購入したつもりである。家内は、このインターネット時代にこれを後生大事に抱えていることの意味を解さない。長男を巻き込んで、「百科事典捨てろ捨てろ大キャンペーン」を開始した。私は、それをするなら、あなたたちが私の家から出て行きなさい、くらいの剣幕を示し、この計画を一旦断念させた。しかし、家内は諦めず、今度は、どういうクライテリアの本なら捨てても良いかと言い出した。仕方なく、学生時代のマイナー科目の教科書と伝えると、家内は書棚をフルスキャンしたらしいが、該当する本がほんの4−5冊であったので、とうとうこの策謀を放棄した。この春に大学に合格した長男は、彼の部屋に置いた非常に大きな書棚に子供達に見えるように開架しておいた数百冊の文庫本を私の書斎に移動し、書棚を分解し、これを廃棄した。この書棚は家内のものであったから、抵抗はできなかった。いま私の書斎の書棚のあらゆる隙間を文庫本が塞いでいる。物置感が蘇った。書棚の跡には、私の書斎から小さいデスクが運び込まれ、その横に、せいぜい100冊しかはいらないであろう、マガジンラックまでついた、おしゃれな書棚が据えられていた。否、私はこういう貧弱なものを書棚とは呼ばない。何故私が本を捨てず手元に置くのか、わざわざ書かぬが、ものを考えるひとには理解していただけるであろう。

このような私の金沢の仕事部屋がどういう有様であるかは、容易に想像していただけるであろう。公費で購入した書籍はもちろん私費で購った本も全部並べてある。秘書さんが、毎年校費のなかから一定額を私の書籍購入用にあててくれるので、Goodman & Gilmanとか、学生時代には高嶺の花(高い+読みきれない)であった教科書の最新刊を置いたりして、悦に入っている。全ての蔵書の背表紙が見えるように、閉架はしない。生涯に、無為に本を捨てたということもあまり無い。大学に入学した後も解法のテクニック(数学)とか物理・化学の参考書をしばらくの間手元に置いたほどである。実験ノートは、学部三回生の時京大ウイルス研でウイルス発がん研究を開始して以来の全冊がここにある。ファイルの量もおびただしく、私のすぐ左隣に据えた中型のスチール製の書棚には、私が大学院生時代にクローニングしたMSX-2とRECK遺伝子のDNAシーケンスを読んだデータのファイルが置いてある。当時は、放射性同位元素[35S]を使い、DNAポリメラーゼの速度を計算してタイムコースをとって反応を止め(ノーベル化学賞を2度受賞した唯一の学者であるサンガー先生の開発したジデオキシ法)、ゲル板を立て、サンプルを電気泳動し、絶対にしわ寄らぬようにゲル板からゲルを剥がしとり、濾紙に載せ、真空乾燥させ、それを室温において幾晩か密着させたレントゲンフィルムを自分で現像し、目でラダーを追い、シーケンスを読み、紙に書き付けるのである。若い頃、私はこの作業を日に2周やった。今から思うと実験というのはこんな単純作業の純粋な繰り返しであった。RECK遺伝子は4Kb以上のcDNAと30Kbにおよぶゲノムのシーケンスを両方決めたので、データは膨大である。レントゲンフィルムは金沢に来るときに全部廃棄したが、シーケンス表は捨てるに忍びなく金沢まで持ってきた。ファイルの中には、他に、ウェスターンブロットやノーザーンブロットに使用したメンブレンも多数入っている。これに加え、私には、20年以上連れ添った論文のコピーの山があった。他から見ればどれも紙の山であるが、それらは、特に古いもの、ちょっと最近のもの、非常に新しいもの等に分かれていて、地層の如くに積み重なっていた。もし全部積み上げれば数メートルになる。何度も何度もこれを捨て去ろうとしたのであるが、このなかには、現在の仕事の源流となったもの、こんなことができるのだと勇気づけられたもの、あまりに見事な仕事ぶりに嫉妬し歯がみした論文など含まれ、どうしても捨てられなかった。なかでも大事にしていたのは、ボストン時代のボスであったEwen先生から手渡された論文コピーの束である。Rbがん抑制遺伝子のホモ型およびヘテロ型ノックアウトマウスの表現型を報告し、米国の3つのラボから同時にNature誌に掲載された一連の論文である。これらの論文を暗記するほどに読み込んだ。その中には、Tyler Jacks・Bob Weinbergの論文もある。私はこのグループ(MIT, Whitehead Institute)からRbノックアウトマウスを譲り受け、これをボストンのRed lineとGreen lineを乗り継いでDana-Farber癌研究所(Harvard Medical School)に持ち帰り、その後10数年の仕事の礎とした。この時、Dana-Farberの獣医には、運搬に地下鉄を用いたことを正直に申告したのであるが、彼女は、あ、そう、とのみ言った(英語で)。おおらかな時代であった。このコピーにはEwen先生の書き込みが何カ所かあり、どうやっても捨てることができなかったのであった。彼は、D-type cyclinとCDKの複合体がRBタンパク質を不活性化することを報告し、RBファミリーのうちp107をクローニングした男である。当時Pubmedは確かあったし、新しい論文は画面をそのまま印刷できたような気がする。しかし、古い論文をPDFとしてダウンロードするということはできず、Dana-Farberのセミナー室においてあるようなメジャージャーナルであればよいが、そうでなければ、Harvard Medical School附属のCountway図書館まで800mほども歩いて行き、コピーを取るという作業が必要であった。ポスドクの仕事も纏まり、これから論文を書くという段になると、一回の作業で15報以上の論文をコピーした。大概5冊とか10冊とかを一冊に合冊してあるので、恐ろしく重い。ページとページの境目で像が途切れぬように体重をかけて平たくする。夏ならば良いが、冬季にCountway図書館まで歩くのは過酷で、私が使ったブリガムウィメン病院とハーバード医学部の間の道は結構寂しい。そうやって手に入れた論文のコピーはどうしても捨てられないのであった。なお、話題は逸れるが、この時、Countway図書館においてNature誌だかCell誌だかの第1号というのを見つけ、大変に興奮した。

家内のやったくらいの断捨離をこの教授室でやるとすると、その徹底度によっては、とうとうあの論文のコピーの束に手をつけることになる。この聖域に手を触れるということがどうしてもできず、これまで、大掃除なるものを年に2度ほどずつ試み、しかし、そのたびに、最近蓄積した紙類のみを捨てるというだけの限定的な整理をもって事を穏便に済ませ、決定的な作業は先送ってきた。この度も決断を先延ばし、まず、教授室では無く、金沢の自宅の断捨離をもって予行演習とすることにした。それがうまくいけば、余勢を駆って教授室もなんとかなるかもしれぬ。金沢の自宅は、ものを捨てられぬ私の性格を反映し、美味かったスコッチや誕生日に友人から贈られた日本酒の空瓶であるとか、太ってしまってとうに入らなくなったズボン、ゴムがブカブカになった靴下、クリーニングに出すとついてくるプラスティックのハンガー、果ては、コンビニでくれる袋、箸、おしぼり数年分、などなど貯まっている。このどこから手をつけるか。のちに教授室の掃除でもそうしたが、玄関から最も遠い場所からスキャンをするように掃除をすることにした。あっちこっちに飛ぶと最後までやれるか自信が無い。このストラテジーは最後まで厳格に貫いた。この過程をここで詳述すると極めて退屈な文章となるので、割愛するが、夜中は9時頃から午前1時頃まで、朝はラボに行くまでの2時間ほどを作業に費やし、まる1日は、在宅勤務としていたので、このかなりの時間を当て、4日間所要時間23時間ほどでようやく玄関ドアの拭き掃除を終えた。これほどまでに時間がかかったのは、腰痛のためであった、腰をかがめて作業をすると、これが来るし、座り込んで作業すれば、再び立ち上がるのが大変。中腰で掃除機をかけると、10分くらいは動けぬようになる。頻繁に休憩が必要であった。なお、私は、この掃除のために、掃除機を買い換えていた。初号機は、掃除のあと必ず喘息が出て気管支拡張剤の吸引をせねばならなかった。あれは何の機械であったのか。金沢市の指定ゴミ袋45Lほぼ10袋ほどをパンパンにしてゴミ捨て場に出した。この作業中に発見したのが、ベニア製のドアやフロアにある赤いシミであった。風呂場とキッチンを中心に広がっていて、低い場所ほどこれが顕著であるので、湿気がこの発生を誘導したのは明らかであった。界面活性剤を雑巾に染ませ、少し力を入れてゴシゴシすると、これをなんとか拭き取ることができた。これがなんであるかネットで検索すると、それは赤カビであり、人体には有害とあった。このため、私は、界面活性剤の効果をコンソリデーションすべく、ブリーチ剤による清拭を追加で行うことにした。そのほか、見える場所、手の届く場所のすべてを、界面活性剤を用いて清拭した。着るものは、コート、スーツ、夏用、冬用に区別して並べ替え、小さくなった(私がおおきくなったのだが)ものや二度と着ないようなものは躊躇無くゴミ袋に入れた。クローゼットにムシューダをセットした。一部のシャツを小さめに切り裂き、靴磨き用の布を量産した。次に、これを用いて、すべての革靴を拭き清めワックスを掛けた。家内が以前にここに来て押し入れの中にしまい込んだ文庫本を全部部屋の中に出し、背表紙が見えるようにして、きれいに並べた。何年か?洗っていなかった寝具カバーをすべて剥ぎ取り、洗濯のために京都に持ち帰った。これらの作業を完遂した時はちょっと感動した。この頃全く外食をしなかったので、マスクをして、エムザの地下に行ってワインと惣菜を買ってきて、すっかり様変わりした部屋でひとり乾杯した。空気までもが静謐に感じた。ダイアリーを見なおすと、この偉業を成し遂げたのが、5月18日から21日にかけてとある。22日の朝にゴミを全部捨てたとある。

5月25日から28日にかけてとうとう教授室の決定的な断捨離がなされたとダイアリーに書いてある。これにも自宅と同じポリシーを採用した。部屋の隅の予備のパソコンが置いてあるテーブルの足下から作業を開始した。そのパソコンの直下にある論文の束とファイルボックを葬り去ると、その左奥に隠しキャビネットがある、これは、多分、先々代の教授がこのがん研がまだ宝町にあった頃の教授室に残されたものである。この代からの数少ない遺物であったので捨てるに捨てられず、いまでも置いているが、中になにを入れたか完全に忘却していた。この蛇腹式の扉をはね開けて、そこで作業が1-2時間止まった。懐かしい書類のオンパレードである。Nature誌からのrejectionの手紙。私が大学院生であった頃、査読結果はまずFAXで来て、それから普通郵便でオリジナルを送ってくる。Rejectであるから、ボスはそんなものに興味はなく、オリジナルを私に渡したのだった。大塚のがん研に行って、北山仁志先生(当時理研研究員、現京都大学准教授)が作られた岡山・Bergライブラリーの改良版を使って発現(機能的)クローニングをやり、ヒトのMSX-2の断片が取れた。これは新規であったで、当時の同僚秋山さんに手伝ってもらってフルレングスをクローニングした。この遺伝子のトランスフォーメーション活性を調べると、NIH3T3とか齧歯類の細胞をがん化させることはできなかったものの、ふと思いついて鶏の有精卵を孵卵器に入れ途中まで孵化させ、胎児から線維芽細胞を樹立し、これにおいてヒトのMSX-2を強制発現させると、がん化して免疫不全マウス皮下で腫瘍を作った。学部学生のときにやったHTLV-I Tax遺伝子の研究で、この遺伝子をNIH3T3やマウス由来の細胞に入れても全くトランスフォームしなかったが、ラットの細胞に変えたところたちどころにうまくいった、という経験をしていたので、これを思いついた。となりにMafがん遺伝子をクローニングしたグループがいて、鶏の細胞をよく使っていたので、鶏卵を思いついたし、孵卵器もラボにあった。当時のボスはこの結果を喜び、速効で論文にし、大学院2年生のクリスマスにNatureに送った。この頃のフィギュアー作りは、今とはずいぶん違う。フィルム、メンブレンや細胞の写真はカメラで撮影し、自分でフィルムを現像し、印画紙に焼き付け、これをきれいに切り取り、Macはすでにあったから、活字や直線あるいは囲み線は印刷し、そこに写真を丁寧に貼り付け、もう一度写真を撮る。写真機はマニュアルだから、シャッタースピードとか露出時間の知識が必要であった。さて、この論文は、ビギナーズラックで査読には回り、しかし、当時家内が大学院進学のために先に京都大学に帰ったため単身赴任となった私が、22時頃誰もいないラボで寝酒をやっていると(ラボの棚や冷蔵庫にはにはいつもアルコールがあった)、果たして、私の実験室の隣の部屋のFAXがギリギリとなり始め、Rejectionを通知してきた。どうもマウスのMSX-2を先にクローニングしたグループに査読がまわり、文句がついたらしい。残念、、というような記憶がワーッと蘇り、すぐに10分くらい過ぎた。その次は、またrejectionの手紙、今度はCell誌。やはり大学院生1年の時にクローニングしたRECKのcDNA全長シーケンズと生物活性、分子機構を数年後に論文として報告した。Benjamin Lewin名で、rejectした理由が細々と書いてある。査読コメントのなかには、ボスが、多分これはWeinberg先生だなという書きっぷりのものがあった。この論文は、上級ジャーナルをさまよい、さんざ時間がかかって、やっとPNASに落ち着いた。このあとのノックアウトマウスの表現型を報告したCell論文と並び、私の論文中最も被引用件数が多く、思い出深いものであった。ほかにも、ジャーナルからの手紙がたくさんあり、ほとんどがrejectionでacceptのものは僅かである。何故このような悲惨な書類をたくさん取っておいたかと問われれば、ひとえに捲土重来を期すためであろう。ここまで、それはあまり果たせていない。これらの書類に混じって、私の学部学生時代の成績証明書が出てきた。学部長の欄に本庶佑の名がある。これをまじまじと眺めてみると、これこそ捲土重来の必要とされる内容であった。それから、ボストン市が発行した、長男の出生証明書など。これらの書類のうち本当に大事なもののみを残し、あるいは写メを取り、この作業を終了した。

隠しキャビネットの罠をようやく抜け出し、次に向かったのが、メーンPCの横と机の左側に積まれた論文のコピーの山である。いままで10数度挑戦し、ついにこの山を撤去できなかった。作業を始めると、一部ずつどんな論文だったか確認してしまう。そのうち、いろいろなことを思いだし、捨てられなくなり、それでも山を小さくしようと試みるが、結局捨てるべき論文は僅かということになり、やーめた、まったく手つかずに終わる。この度は、どういう心境の変化か、この中を一切見ぬようにした。大事な論文や書類まで巻き添えになった可能性があるが、侭よ、と全部ビニール袋に突っ込んだ。Ewen先生から手渡されたNatureも入っていたと思う。あっという間に、私の椅子から部屋のドアに向かって、常よりもかなり広い軌道が開通した。これで自分の部屋の中で足を取られて転びそうになることは無くなる。私は、論文の山がどこにあるか見ずともだいたい体が覚えているが、滅多に私の部屋に入らぬ者が、足下をよく見ずに、不用意に私のデスクに近づくことは、非常に危険な行為であった。次に、私の左隣のスチール製の書棚。ここにも非常に手強い書類がある。上述のシーケンスなどのデータである。遺伝子のDNA配列など、ネットに行けば、誰でもすぐに手に入る。最初に自分がこれを決めたということにそこまでしがみつくのか?またまた、侭よ、と30冊あまりのクリアファイルを抜き取り、床に積んだ。ただし、ここから紙類を抜き取ってゴミ捨て場に持って行くのは、秘書さんの仕事となっている。ごめんなさい。この書棚には、こういったファイルの他に、自身と歴代のスタッフや学生の実験ノートが並べてあった。このほかもあまり見た目の美しくない書類ばかり。角間に越して以来都合10年これを眺めてきた。これを改めた。ほぼすべてのノートは閉架式の本棚に移し、このかわりに、薄めの書籍を並べた。このごろの書籍の背表紙はカラフルであるこら、この書棚は一挙に賑やかになった。

次に、開架式ガラス張りの書棚。これは、元々入れていた書籍のかなりをスチール製の書棚に移したので、ちょうど良い具合になった。見栄えのするつまりちょっと値段のする書籍を並べてある。WilliamsのHematologyとかRobbinsのPathologyの正式版とか。いろいろな国から来た学生達やスタッフが持ってきたお土産、お茶のセットとか、パピルスに描かれたツタンカーメンの像とか、Glenfarclas 25年の小瓶とか、父親からもらった古いミノルタの一眼レフなど(これで散々スライドを作った)、飾った。美しくなったこの書棚のてっぺんには、最近通った論文のお祝いで開けたビンテージ物のバローロの瓶に皆が署名したものを飾り付けた。ノートを閉架にしたかわりにそこから大量の学位審査用書類が吐き出されてきた。金沢大学の医学系大学院は、教授全員に学位審査用の論文のコピーと学生の履歴書を送ってくる。学位審査の申請時、学生諸君は、論文コピー70部の提出を義務づけられる。Proofまで行っていれば良いが、そうでないと、凄いことになる。受け取った方にとっても、これは大変な難物で、個人情報がついている上に、その学生の数年間におよぶ努力の結晶である論文である。それが3ヶ月に一回20-30人分配られる。おいそれとは捨てにくいので、これが知らず知らずの間に蓄積する。この度、本年度までのそれを全部吐き出した。ひとつひとつ論文から履歴書を外し、シュレッダーにかける秘書さんのご苦労たるや、これは、本当に申し訳ない気持ちになる。学部学生の臨床腫瘍学試験の答案、予算申請の審査書類、人事に関する書類もある。

ここまで来ると相当クリアに先が見えてきた。あとは、絡みに絡まったPC裏の配線の処理。すっかりペーパーレス化にはまった私は、学生のPCにつないでデータを見るモニター、紙書類をPDF化するための高速連続スキャナー、過去のデータを一括管理するための外付けHDD数機、8機接続可能なUSBハブ、10機ほどつなげる電源タップ等を購入し、すべてを連結し、極めて高機能なオフィス環境を作り上げた。ちなみに、この機に、手持ちのMacbook airを高速機種に持ち替え、iPadを付けた。iPadはサブモニターになる。これで、在宅勤務においても老眼に煩わされずに論文を書くことができる。

この度廃棄したものの中には、フロッピーディスクとMOが含まれた。ビニール袋に入れて廊下に出しておいたら、しばらくして、外が騒がしくなった。なにごとかと飛び出すと、スタッフや学生がこれを見つけて騒いでいる。若い学生は、フロッピーディスクとMOを何に使うか知らないのである。それから、机の中を徹底的に整理。個人情報の含まれるものを除いて、すべてのゴミを廊下に。最後に丁寧に掃除機をかけて、ふたたび4日間にわたった大断捨離は終了した。ただし、厳密には、未だ完了しておらず、秘書さんは個人情報の処理作業を続けている。

合戦中

何度も挑み越えられぬ壁

投稿者: 髙橋 智聡

ピアノを50年以上弾いている。芸事が大好きで、ほかに、茶道、義太夫三味線、能管、ドイツリートなどいろいろ手を出したが、すべて下手の横好きだった。西洋の古典音楽と日本の文楽をこよなく愛する。この15年ほど、夏山行にはまっているが、太ってしまったのと、まとまった時間がとれないのが悩み。金沢からなら、2−3時間もあれば、北アルプスの主要な峰々の登り口に到達する。そして、虎ファン。現、金沢大学がん進展制御研究所教授、内科医。研究の話は、HPで。 http://omb.w3.kanazawa-u.ac.jp/index.html

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